リスニングができるから話せるわけではない

以前、オーストラリアに住んでいる知人の家に遊びに行ったことがあります。夫婦と子ども二人の家族で全員日本人です。ご夫婦は日本に生まれてからオーストラリアに移り住み、子どもはどちらもオーストラリア生まれです。お母さんとお父さんの会話は日本語ですが、お母さんやお父さんが子どもに話しかけるときは日本語で、子どもからの返事はすべて英語で返ってきます。

 

私がお客さんであるのに気を使ってか、または私は英語ができないと思われたのか、私は子どもたちにたどたどしい日本語で話しかけられました。

 

毎日、ご両親の日本語を聞いて日本語がうまくしゃべれないわけがないと勝手に私たちは推測しますが、特に通じていれば自分の苦手な言語でしゃべる必要のない環境にいると人は自分の楽な言語、この場合は英語、を使い、日本語は聞き取って理解できるが片言しか話せないということもあることの例を見ることができました。

 

家にいてまで緊張感をもって彼女らの苦手な言語である日本語を無理して使う必要性はないわけです。

 

他の言語、たとえば私たちに一番身近な日本語でもそうですが、人と話すという作業はその言語が分かっていても大変な作業です。それは赤ちゃんのように意味ない言葉を感情的に、体全体で表現し、お母さんに理解してもらう一番シンプルなものから始まって、家庭、学校、友達、仕事とレベルがあがっていきます。

 

ある地点の成果で満足し、英語をうまくなりたい、分かるようになりたい、話せるようになりたい、というような目標がなくなり、背伸びも緊張感もなくなるとそれ以上の成長はストップしてしまいます。

 

リスニングが少しできてきて、話す機会がそれほどないにかかわらず、なんとなく自分は英語が話せると勘違いするときがあります。しかし、実際は英語のリスニングができることと、自分で英語を瞬時に組み立てて話すことには思わぬ距離があったりします。

 

ましてや相手の英語を理解し相手が分かるように話すのは、話しが混みいってきたり、知らない分野だったりするともうお手上げです。それに加えて、相手が聞く耳を持たない人、理解しようとしてくれない人だったりすると、感情的な負荷がどっしりと加わり、益々のストレスとなり、ますますしゃべれなくなります。

 

スピーキングの上達にはちょっと背伸びしつつ、実際に話して鍛えていくしかないのではないかと私は思います。